手前に以前の御正殿(ごしょうでん)があります。
その奥が昨年、ご遷宮した新しい御正殿。
古い御正殿は、まだ建物はありましたが、「カラ」です。
こうして、二つのお宮が並びたっていると
エネルギーの違いがはっきりわかります。
更地になってしまうと、また、それは別なのですが。
ありがとうございました。
新しい外宮御正殿です。
おおにぎわい。
この鳥居からなかは、撮影禁止なので、みなさんこの前で記念撮影。
鳥居をくぐって、ご挨拶します。
いいなあ。清浄であたたかい。
最近、思うのですが、日本語って主語がなくても使えますよね。
あれって、引き寄せの法則のまんまじゃないか、と思いました。
引き寄せの法則って主語がないとか、宇宙のパワーは細かいところがわからないとか、聞きました。
だから、毎日、うつうつと暮らしていると、それを引き寄せてしまう。
イヤな相手とすごしていると、ますますイヤを引き寄せてしまう。
でも、バシャールがいうように、現実のなかでワクワクなんてないし、いまある選択肢のなかで、ワクワクはひとつもない、という絶望的なこともあると思います。
だからといって、ソコにこだわっていると、ソレを引き寄せてしまう。
そして、仏教の「お題目」を考えます。
仏教の南無阿弥陀仏、とな、南無妙法蓮華経とか、となえているのは私です。
だから、このお題目は、当然、私を助けてください、という目的なのですが、直訳すると、「阿弥陀様におすがりします」「お教えに帰依します」というだけで、実ははっきりした主語はないのではないでしょうか。
一方、キリスト教は、主よ、迷える子羊を救いたまえ、で、誰が誰を救うのか、はっきりしてる。
「神さま、迷える私(あるいは、あなた)を救ってください」
「南無阿弥陀仏」でも祝詞でも、日本語のアフォメーションは、主語がない。
それは、もしかして、すごくアフォメーションとしてすごく、正しくて、まっとうなのかもしれません。昔の先人達の知恵の深さを感じます。
でも、ま、あまりイヤな事には、こだわらずに。
思いの分量を少なくして、自分の主体をそこに置かない、かな?
御祈祷もします。
祝詞は主語がないので、私の幸せであり、アナタの幸せでもあるかもしれません。
以前の御正殿の前の松。
右下の男性と比べてみてください。リッパです。
この木、いいですね。
すりよる、また。