長野県の佐久地方の総社。
このあたりは、縄文の遺跡もあり、近くには龍岡城もあって、明治に入ってからも、この土地の中心だったはずなのですが、なんともエネルギーのポイントがつかめないなあ、と西本社、中本社では思っていました。
そうは、いっても、広い神社境内があり、実際にかなりの力があった神社であったはずです。
広い境内に、エネルギーのポイントがいくつもあって、といえば日吉大社もそうなのですが、日吉大社とはちょっと違います。日吉大社は、ボンボンと柱がたっているような場所なのですが、ここは、糸のようなシグナルを手繰っていくと、次の物語が現われるという違いでしょうか。
前回の西本社、中本社 から続きます。
( 玄松子の記憶の新海三社神社 から転載 )
三重の塔は、室町時代に神宮寺、つまりお寺の塔として建設されたのですが、明治の廃仏毀釈の時は神社の宝庫として破壊を免れたそうです。
そして、神宮寺は、この東本社のさらに東側にあったそうです。
現在は、すっかり空き地と家が建っているのですが、その雰囲気は、東本社の拝殿の前あたりに残っています。
現在の神宮寺は、少し離れたところに移動しています。
全部は読めないのですが、アタマに梵字のバクと読めるので、阿弥陀如来の事を示していると思います。
主祭神の興波岐命(オキハギノミコト)がおられます。
でも、いまいち、この神さまがつかめないです。諏訪大社の建御名方命(タケミナカタノミコト)のお子神さまのひとり。
このあたりを新たに開拓された方。
新海(しんかい)というのは、新開が転じたものとされていました。
新開神(にいさくのかみ)とも証されて、佐久(さく)というこの地方の地名になったそうです。
地元の名士、という感じなのかな、と思うけど。
近くには千曲川が流れており、ゆるやかな斜面もあって水耕の技術をもたらした方であると思います。
一方、出雲美保神社の事代主命(コトシロヌシノミコト)と、諏訪大社の建御名方命(タケミナカタノミコト)も同じ神社におられることから、出雲、諏訪という製鉄、または水銀や銅を扱う民、あるいは狩猟をする人々もいたのかもしれません。
今のパワーポイント、重心は、立派な社務所もあり、ご利益も、それから武田信玄が祈祷した武運も、八幡神がおられる西本社側だと思うのですが、西本社はむしろ、最近の感じ。
もともとのナニかはむしろ、東本社。最初の起源は、東本社の側であって、中世の神仏集合の時代もパワーポイントは東本社側であったはずだと思うのです。
もちろん、この拝殿のつくりのせいかもしれませんが、この東本社の特に手前に神仏集合の時代の雰囲気を残しており、しかし、この拝殿の奥にも、エネルギーのポイントがあると感じていました。
この位置にある天神社は、学問の神さまである菅原道真公ではなく、雷よけ、火防の神さまとしてのお役目だと思います。
西本社から東本社にまわってきても、さらに、その奥にもうひとつなにかがあると思っていました。
どんどん、重心が動いていくような不思議な神社です。
佐久市のサイトの 新海三社 についてのページ。
玄松子さんの 新海三社のページ
佐久市のサイトの 龍岡城 五稜郭 についてのページ