新年、初めての卯(う)の日は、亀戸天神社の御嶽神社の初卯(はつう)祭、とチラとなにかで見ましたので行ってみました。
亀戸天神は、遊び場のひとつだったのですが、初卯の「お祭り」があったとは知りませんでした。
でも、亀戸天神のホームページにも「境内に隣接する御嶽神社」と、少し書いてあるだけど、なんか、あまりオシてない感じ。
でも、妙義神社とも関係があるみたい。
妙義神社の記事は、こちら。
まず、本殿にご挨拶してから、行ってみました。
ああ、このお社、いつもは扉が開いてなかったかも。
御由緒を読んでみたりしたのですが、どうも、いまいち、わからない。
天神さま(菅原道真)の先生のお坊さん(法性坊)をおまつりしている所で、大宰府の御嶽山からきていただいた、と。
卯の日、卯の刻に亡くなったので卯の神さまとされ、そのお祭りをします、と。
御嶽神社なら、修験道か、木曽でしょ?と思うけど、法性坊さまは天台宗で比叡山の座主、エライお坊さんだった。
エリートじゃん!
でも、法性坊さまは、エリートに似合わず比叡山の天狗、とされているらしく、妙義山でもおまつりされているので、もとは亀戸妙義社ともいっていた。
妙義神社の近くの山には「大」の字がかかっていて、それは妙義大権現を意味していて、妙義大権現とは、法性坊のこと。
実際、行ってみたのですが、妙義神社のご祭神と、妙義神社本殿裏にある天狗社のご祭神は、なんか違うな、と思いました。
妙義神社の本殿のご祭神のなかにに、道真公がいらして、関係がそれとなく示されているのですが、妙義神社の天狗社のご祭神は、法性坊だとは書いていない。
由緒書によると、法性坊は、道真公が亡くなったあとも、大宰府天満宮の設営に尽力されたと。
当時は、天神さま、菅原道真公は、たたり神として知られていました。
この時代、京都では落雷による火災がとても恐れられ、伝染病もあったりして、その原因を、怨みを残して亡くなった方にもとめていました。
じゃあ、最近、ひどいメにあったヤツって誰よ?
と人々のうわさになったのが、菅原道真公。
才能で天皇近くに出世したあと、突然の左遷、
そしてその地での死。それは怨霊になっても仕方ないよ、じゃあ、なんとかしようよ、という事になって、
恩師である法性坊が、お宮をたてたりして尽力された、と。
その道真公を、供養というか調伏というか、説得というか、お引取り願ういきさつが、能「雷電」になっています。
話がどんどん、横すべるのですが、能、ってスゴイですよ。
だいたいが、この世のものでないモノを、供養やら調伏やら説得やらで、お引取りいただく、話が多い。
能の話は、また、いずれ。
で、法性坊さまが亡くなったのが2月の卯の日卯の時だったので、春の陽気を迎える日となりました、とさ。
雷をおさめた法性坊を偲びつつ、また、雷は春をよぶもの、とされているので、雷がおさまって、春がくるのね、という季節感もあったと思います。
この初卯については、源氏物語の「浮船」の卯の魔よけも登場して、当時の道真公、雷公、天神さまと春をよぶ行事がむすびついているのがわかります。
で、亀戸天神の御嶽神社では、今でも、初卯の日に火防(ひぶせ)、雷よけのお札が授与されます。
いい感じです。
ここからは、私の考えなのですが、道真公を、この法性坊がうまく引き取っていただいたので、
「アイツ、すごすぎ。アイツこそ、あやしくね?」
みたいに思われて、天狗じゃないか?みたいに思われたんじゃないか、と。
しかも、でもアヤシイとかいったら、また道真公のように、たたられるから、神社にしておまつりしておこう。
天狗なら、妙義だろ、じゃあ、妙義神社にしとこう、
それ、作ったの誰よ?とわかったら、その人こそ、あやしいだろって言われるから、テキトーにぼやかしとこうぜ、みたいな流れじゃないかな?と。
で、江戸時代には、そんなたたり神のコワさもなくなってきて、でも、火事は江戸でも大問題だったので、初卯のお祭りはにぎわっていました。
(江戸時代は、だいたい寺社仏閣参りはレジャーのひとつ)
そこで、年の吉凶を占う妙義山の巫女たちが、社前に並び妙義大権現の託宣などもするようになった、とも。
妙義からホントに巫女が来たかどうか、ちょっとアヤシイんだけど、それもエンターテイメントのひとつ、として楽しんでいたのかもね。
でも、なんなんだ?奇妙に結びつくような、つかないような・・。
昔っから知ってるところなのに、深いなぁ。
梅が咲き始めています。