宮乃咩神社 (みやのめじんじゃ)
大鳥居をくぐった先にあります。
境内、ともいえない場所におられるのですが、
ここ、大切な場所だと思います。
源頼朝の時代には、北条政子が安産祈願をしたこともあって
看板には、こちらの例大祭には、武蔵国中の神社で、
天下泰平の祈願をしていた、とありました。
でもそのあとに、わざわざ(今は、国中の神職は参加しない)とあって
そんな事書かなくても、と、ちょっと違和感がありました。
本殿の方とは、ちょっと違うのですよ、とメッセージがあるようです。
それでも、ご社殿も新しくされていて
ちゃんと、手もはいっているようです。
女性の気配が強い場所です。
創建は本殿と同じ時期、とされています。
国府がおかれて、ここで祭祀がおこなわれる前にいらした方じゃないかな?
いまは、ご祭神が天鈿女命(アメノウヅメノミコト)となっています。
天鈿女命(アメノウヅメノミコト)は、
ここでは安産の神さまになっておられます。
底のぬけたひしゃくを奉納すると、抜けるように安産、だとか。
安産祈願に、底のぬけたひしゃくを奉納する、というのは
あちこちで見るのですが、
なんとなく、なじまないような感じもします。
昔と今の、お産にたいする考えの違いなんだろうか。
底のぬけたひしゃく、というと、
海で実体のないモノに呼ばれた時に、投げてやるもの、
というイメージがあるから、なんだろうか。
この前には府中ふるさと歴史館があって、
出土した土器などが見られます。
ここは、律令政治がしかれる前から遺跡があって
そこに国府をもってきたのだと思います。
また、随身門の手前には、忠魂碑。
先の大戦で亡くなった方を偲ぶ碑です。
この神社は、戦勝祈願成就のお宮なので、
戦争にまつわる碑が大きいのは、わかります。
宮乃咩神社と忠魂碑の先に随身門があるのですが、
その直前を、品川と続く道、品川道、と
京所道(きょうずどう、きょうずみち)が横切っています。
甲州街道ができる前の道で、古代の道です。
ちょっと不自然なのですが、
1051年に南向きであった社殿を源頼義が北向きに改めたそうです。
また、見事なけやき並木の参道も
源義家が寄進する前はなかったのですから、
本殿と参道は別の向きを向いていたはずで、
この古い道も、ちがった場所を通っていたのでしょう。
古くからの聖地であり、
品川という海と、律令国家が成立したあとの都を結ぶ場所で
律令時代には、国府も置かれた場所。
でも、中世に入り、武家の時代に向きを変えられているほど、
力が弱くなっていたのかもしれません。