寒川神社は、何度も来ています。
最初に来た時、境内の光にあふれた場所であることが、印象に残りました。
東日本大震災のすぐあとにも、来ました。余震が続いて、地面が落ち着かなかったのですが、この神社は、むしろサッパリとした様子で驚きました。
もともと、この寒川神社は海の近くに湧いた泉の聖地。
その泉は、難波(なんば)の小池といわれ、本殿のうしろで今も水が湧いているのですが、それがわかりやすい形となってあります。
ちなみに、左にも池があって、こちらは、季節には花菖蒲が見られます。
この地に最初にお社ができたころは、治水技術が未発達で川の水を利用するのではなく、難波の小池の湧水をもとに稲作をおこなってきたとのことです。
また、寒川神社の「サム」は、「清い」とか「神聖な」という意味で、「カワ」も昔は河川ではなく「泉」「池」をさしたと柳田国男が言ったと、読みました。
柳田国男といえば、サ行+カ(ガ)行については、「サ」音は岬、坂、境、崎などのように、地形やものごとの先端部や境界部をあらわす古いことばに頻出する。この「サ」音が「カ」行音と結びつくと、ものごとを塞ぎ、遮る「ソコ」などのことばにあらわされるような「境界性」を表現すると、柳田国男が伝えていると「精霊の王」で読んだことがあります。
精霊の王は、諏訪のミシャクジや、後戸の神について書かれていて、非情におもしろい本なので、こちらもおすすめです。
この日は、お彼岸の中日、秋分の日でしたが、七五三の参拝の方がチラホラと。
拝殿に向かいます。
実は、ここに到着する前までは、大雨警報がでるくらいの土砂降り。
到着したとたんに、薄日が差してきました。さすが、レイラインの上のお宮だ。
回廊では、秋分の日、春分の日限定のお守りを授与されていていました。御迎光守。
なかなか、いい感じのものなので、いただきました。
(写真は、公式サイトの記事からいただきました)
また、回廊では、寒川神社の方徳資料館の学芸員の方が、パネルを出して、説明されていました。
春分、秋分の日には、太陽は房総沖から昇り、玉前神社(たまさきじんじゃ)、寒川神社、富士山、竹生島(ちくぶじま)、元伊勢、出雲大社を通り沈んでいきます。これは、レイライン(光の道)と呼ばれています、という説明のパネルもありました。
さらに、春分、秋分の日には寒川神社からみると、富士山に、夏至には大山(おおやま)に夕日が沈みます、というパネルもありました。大山は、阿夫利神社があります。
冬至の夕日は、どこに沈むのですか?と聞きました。
それについては、鷹取山ともいわれているそうですが、今は、定説はないそうです。
「日本の聖地文化: 寒川神社と相模国の古社」では、箱根の神山が、冬至の夕日が沈む方角とありましたが、富士山や、大山に夕日が沈む絵に比べて、いまいち、この地から見たらわかりにくいので、私もわからないなあ、と思っています。
ただ、冬至というのは、陰の極みであり、その日から太陽が復活する大事な日なので、その夕日が沈む先は、大切な方位には違いないと思うのです。
また、近年、JAXAの協力で、衛星からのデータがとれて、古代の海進がどのくらい進んでいたのかが、わかってきたそうです。
寒川から西の箱根や、富士山の方角は、比較的高い土地なのですが、この寒川神社は、湾のなかにあって、目前まで海だったそうです。いまのご社殿のあるのは、海抜8m。低い。
私、こういう学芸員の方とお話できる機会があれば、かなりしつこく話すんですよ。
この近くには、縄文中期の大きな岡田遺跡があり、その出土品からみると海や川の魚がとれた豊かな土地が、最初であり、その後、安楽寺の中にある大神塚と呼ばれる古墳につながるそうです。
伊勢神宮のせんぐう館でも、学芸員の方にいろいろ、うかがっておもしろかったです。
神社で博物館を持つ、ってなかなかできることではないと思うのですが、宝物をはじめ学術的な価値もあると思うので、こうした博物館って増えるといいなと思います。
渾天儀(こんてんぎ)と四神、方位盤を組み合わせたものです。渾天儀は、天体観測に使う模型。
これ、なかなか強力。
もちろん、最近のものなのですが、これを見るために来るとしても、価値はあります。
明治神宮でも、こういった造りになっていました。
なかなか、いい感じです。
寒川レイラインについては、八雲さんのサイトも充実しています。
「日本の聖地文化: 寒川神社と相模国の古社」は、ちょっと難しいのですが、地層の動きや古代の地層の花粉の分析、JAXAのデータもあって、おすすめです。