ノンデュアリティについて、何冊か読んでいます。
そのなかで、たぶん、アマゾンで売れていて、評価も高い本ですが、やはりおすすめが難しいなあと思う本がありました。
ノンデュアリティって、本で理解できるものじゃないのですが、言葉によって、良くも悪くも、新しいナニかに気がつくことがあります。
この「売れている」本で、私がひっかかったのは、この本のなかで、ドラッグで人格(あるいは、家族)を失いかけている方に対し、それを肯定している部分です。
確かに、この著者のノンデュアリティの考えでは、ドラッグでも犯罪でも、単に出来事であり経験であり、良くも悪くもないでしょう。
本質は、そうでしょう。
でも、ドラッグで、人格や家族を失う経験をしている方は、ノンデュアリティは、向いていないのではないでしょうか。それは、「そのままでいい」という単純な理解でもないと思うのです。
その方には、私は、現実という分離の経験を、もう一度してからでも、遅くないと思いました。
それは、ノンデュアリティと分離の経験と、どちらがエラいとか、そういうことではありません。
赤か青かいう色の違いと同じで、どちらも貴重です。
この世に生まれている(という幻想、経験だとしても)以上、現実や、身体にこだわるのは必要だと、私は思うのです。
それが、「現実という幻想」だとしても、その幻想は貴重なものですし、それを大事にしたいと思うのです。
また、その幻想は、つらい必要はないと思いますし、楽しい方がいいと思います。
そして、幻想の一部となっている家族や友人も、同じではないでしょうか。
現実という分離に足を置く事は、ノンデュアリティに限らず、霊性に触れる事や、スピリチュアルな理解を深めるうえで、欠かすことのできない部分だと思うのです。
かといって、現実という幻想にばかり、こだわっているのも、霊性に届かないことになり、「もったいない」とも思うのです。
矛盾することですが、この矛盾は、まるごと受け止める価値のある矛盾だと思います。