ツイッターに流したのですが、まとめてみました。
きっかけは、まろかれさんがお受けになっている祈祷のノートに関連するツイート。
流れていくツイッターとブログは違うので、多少、手をくわえて書きます。
ノートの記事を買われた方で、ある思いを伝えてこられた方がおられたそうです。
その方を責めるつもりは全くありません。それほどの思いのなかで、よく生きてこられた、と思います。その思いを持っていることを、言い立てるつもりはないのです。このあたりは、ちょっとぼんやり書きますが、ご承知おきください。
でも、厳しい言い方かもしれませんが、ご自身の問題は道徳とか正しさではなく、そこは自分のなかでなんとかする方が、あとあと(来世も含め)よいと思うのです。
その上でご祈祷をお願いすることはプロに任せる。
そのプロの先には、神さまがおられて、つまりはプロを通じて神さまにお任せすることになります。
そして、強い思いである、縁結びも金運も健康も自分ですべき分があるように思うのです。
それ以上はプロへお願いするべき。
シロートがググった真言や印を使うのは、自分の分を超えたものです。そこに至らなくても「縁結び、お願いします!」という念というか、強すぎる気持ちも、もはや呪に近くなります。
有名な縁結び神社で時々、この念を感じることがあります。重い!です、これ。
笑顔で楽しげにお賽銭箱の前に並んでいるとしても、むしろその無邪気さが怖かったりする。
愛情だと本人は思っていても、無邪気に念をとばしているように思います。
「好き」という言葉、祈りにのせて、恨みをとばしているのと同じ。
飛ばされた相手も、うっとおしいだけだし、そして、それをとばす方も傷むのです。
相手も自分の魂も傷むことを、神さまが仏さまがお喜びになるとは思えない。
どんなにつらくても、相手に念を飛ばしてしまうと、痛むのは自分。
慟哭のなかでそんな悠長な事、言ってられるか、もわかります。
でも、時間をかけてそう思えるまでがこれまた、修行なのだと思います。
もちろん、背中から切りつけられた時には、振り返って応戦です。これは当たり前。
即、応戦しますよ、私。
かかってこい、とは言わないけど、現実的な手段はとります。
でも、その背中の傷をいつまでも、恨んではいけないと思うのです。
そして、強い愛情は、強い恨み、念と同じ
引き寄せの法則で、宇宙は否定形がわからないから、「○○しないでください」ではなく「○○して」(あるいは「○○ありがとう」と完了形で言う)とアフォメーション(宣言して)するのが引き寄せの法則です。
それも、強い愛と強い念、恨みは同じだという事なんだと思うのです。
自分の分を超えたものを引き受けてくれる、祈祷を引き受けてくれる方はプロなので、神仏の仲立ちをする訓練をうけておられます。
でも、それもどの業界でも同じように、訓練されている人としてない人、あるいは、間違った訓練を受けている人がおられると思います。
ただ、私は神社に行きまくってますが(笑)神社におられる神職は安心してお任せしています。
場が荒れている神社はあるけれど、カタチに宿るチカラはあって、ご祈祷はまた別です。
一方、神社におれられない方でご祈祷を受けていらっしゃる方は、話は別。
ご自身で修行、訓練されているのか、あるいはそういった依頼者からの念を、ご自身で受けてへんな方向にいっちゃっていないか、は、自分で判断するしかないと思っています。
お寺については、様々だと思います。そもそもご祈祷をお受けする環境にないお寺さんもおられるし。
傷だとしても、愛だとしてもこの世の自分の分(ぶん)は、来世にもっていかないためにも、自分でどうにかする。
そして、訓練したプロに自分の分(ぶをわきまえるの、ぶ)を超えた分(これはぶん)をお願いする。そして、そこは、当然、お金を支払うべきものです。
それで、本来、自分がうけるものや、かぶるものを引き替えにするという意味もあると思います。
占いもそうではないかと思います。
ネットなどで無料の占いがあるけれど、楽しみならいいと思う。いろんな占いにふれるのも楽しい。でも、自分が迷ったときは違う。
以前「無料で占ってください」と言われた事がありました。少しほおっておいたのですが、フォロワーさんの霊能者が「あなたの人生は無料なんですか?」と言ってくれて、ああ、そうだな、と思いました。
自分の人生はいくらか、なんて考えられないけれど、自分の人生を無料、タダにしてはいけない。
ということで、さ皆様、菩薩業、今日もガンバリましょう。
まろかれさんのツイッターアカウント @furunomitama
(2019年8月29日ツイッターから)