今の鹿児島県は、昔の「国」のくくりでは「薩摩」と「大隅」にわかれます。
この新田神社は薩摩の国の一の宮です。
薩摩の国の一の宮はもうひとつあって、枚聞神社(ひらききじんじゃ)も一の宮です。
神社のある神亀山は、標高70mと聞きました。なあんだ、と思うかも知れませんが、すぐそこが海に向かう川、大きくいうと東シナ海なので、結構な高さを感じます。
そのお山ひとつ全部が神社です。
なのでこのたいこ橋のある川のあたりから登っていくと、これがまた、結構な長さの階段の参道になっています。
この日は蒸し暑い雨まじりの日でした。
ここ、涼しいんだろうね。ネコは気持ちのいい場所を知ってるね。
もともと、この山の下まで川と湿地帯で、この神社のお山が島のようになっていたようです。
亀の形のお山だそうです。
子抱き狛犬といわれていて安産祈願、子育て祈願のご利益もある神社。
なんか日本じゃないみたい。
一の宮にあるのんびりとした、広がるような伸びやかな雰囲気がないのも、なんとなく日本らしくない、というか伊勢に通じる雰囲気がないのです。
こちらのご祭神は、邇邇芸命(ニニギノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)、天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)。
アマテラスオオミカミとそのお子神のアメノオシホミミ、そのお孫神のニニギノミコトとお聞きしたのですが、なんかピンとこない。
以前は、新田八幡と称されていたそうです。でも、今は八幡神とされる応神天皇はご祭神にははいっていません。
ですが、八幡神、あるいは八幡菩薩としても、なにかピンとこない。
八幡様ってその土地によって、いろいろだから、この土地の八幡様という事なのかな?
この雨の蒸し暑さもあるんだけれど、神社にある樹木も、東京の神社にあるような植生じゃない。香港とかシンガポールのような雰囲気。
この植生と雨のせいで八幡様、あるいは、アマテラスオオミカミという伊勢の神さまという感じがしないのかもしれません。
この拝殿、勅使殿の真向かいにもうひとつ舞殿があって、その奥に本殿という東京ではちょっとみない配置になっていました。勅使殿と、その左右に回廊のようにつながる造りは、鹿児島の神社独特。
そしてそれぞれが渡り廊下でつながっているのもおもしろい。
国庁という古代の政治の中心の南西という大事な方向に位置しています。
というか、ここがあったので国庁をこの場所にしたんじゃないかと思います。
国庁の鬼門には菅原神社という神社が置かれています。
ちょっと鬼門と裏鬼門ということでみると、バランスが悪いけど、この新田神社を鬼門におこうとすると、国庁が川内川のなかになってしまうので、無理なんだろうなと考えました。
でも、神社が裏鬼門に置かれた、というわかりやすい事でいいのかな?
そもそも、「鬼門」というような考えは、平安京の造営のときにあったとして、それがいつ、この地に伝わってきていたのかが疑問だと思いました。
そもそも九州は「熊襲(くまそ)」として、反ヤマト、中央の権力に反抗するものとして古事記、日本書記の神話に登場しているからです。
(細かい話になって恐縮ですが、隼人(はやと)と熊襲は違うようです)
いずれにしてもヤマトの中央権力に抵抗した地元のパワーということで今は、理解しています。
そこに天孫といわれる力のある支配者の陵墓がある、というのはどういうことか。
国庁と新田神社の位置関係については、境内に掲示してあった新田神社の沿革をみます。
ここにだそうかと思ったのですが、ちょっと細かいので、だしていません。
それによると、「和名抄」には薩摩国建国の時は、大量の移民がなされ、同時に国府が設置された。
その時には、川内川が交通、貿易、軍事上重要な地域であり、平安京のような四神相応の地だったとありました。
つまり、境内に掲示された沿革によると、国庁と新田神社は鬼門、裏鬼門を意識していたとしておかれたらしい、というのがわかります。
これで一応、神社と国庁の位置関係については納得。
でも、そもそも、新田神社はなぜ、ここにあって、どなたがご祭神なのか、については、答えがありませんでした。
なので国庁が成立したときに、ここに神社、ということでなくても、信仰の対象となる場所がすでにあったのではないかな、と思います。
その後、八幡神がやってきて、仏教も当然、集合していたので、以前はこの神亀山の中腹に拝殿があり、ネコのいた参道付近には寺院がいくつも建っていたところだそうです。
でも、この日本っぽくない感じやら、結局、ここにおられる方についての情報は、ウェブにでてくる以上のものはありません。
毎度のように時間も早いし、他に参拝する方もあまりいないのですが、この新田神社の時間の積み重なった情報量の多さはすごいです。
この神亀山だけで半日、いや1日歩く必要がありそうな多さです。