前回(こちらの記事で)拝殿でご挨拶をしたので、その裏手にある御陵にお参りします。
拝殿の奥に本殿があり、さらにその奥に古墳があるので、結局はこの古墳を拝しているのです。
これは境内にあった絵。
この古墳は、天津日高彦火邇邇杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)、別のお名前では、邇邇芸命(ニニギノミコト)の陵墓とされています。
お墓、陵墓のお名前としては、可愛山陵(えのみささぎ)と申し上げます。陵(みささぎ)とは、天皇、皇后のお墓のことです。
ニニギノミコトのお墓は、別の場所も候補としてされている場所がありますが、ここもそのひとつ。
天皇陛下のお墓なので、宮内庁の管理になっています。
作りは、宮内庁管轄の古墳なんですが、やっぱり拝殿前で感じた「日本じゃない感」がさらに強くなります。
このあたりの木々を写真でとるとあまり変わらないのですが、私のよく知っている明治神宮のようにある意味人工的に作られた森や、あるいは三輪山のような森ではなく、東南アジアのような湿気と森。
ご挨拶します。
八王子御陵(武蔵野御陵)でもいつも、ちょっと迷うのですが、ここ、柏手でいいのかなあ、お墓だし。
と思ながらも、神さまなので柏手をうって、祓詞(はらえことば)を奏上します。
この方、どなただろうか。
ニニギノミコトは、天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫。天孫(てんそん)として、神さまの国の高天原から日向(九州の南部)に降りたとされていて、皇室の祖先になったとされている神さまです。
でも、ニニギノミコト、あるいは天孫、アマテラスオオミカミのお孫ちゃんというイメージがたちあがってこない。ニニギノミコトって、こういう感じの方、というイメージがないからなのか。
武蔵野御陵は、それぞれの天皇陛下皇后陛下のイメージ、パワーがリアルに立ち上がってくるのです。もちろん、昭和天皇、香淳皇后(こうじゅんこうごう)はそのお姿を憶えているということもあるでしょう。武蔵野御陵についても記事を書いております。こちらで。
また一方で、それ以外の古墳は、おだやかな波動が気持ちがいいのです。
例えば、こちらの群馬の古墳。こちらの記事で。
でも、ここはそのどちらとも違います。
こちらの御陵におられる方は、どっちかというと、やる気満々。
とても力のある方のお墓だとは思うのですけれど、それが天孫降臨(てんそんこうりん)のニニギノミコトかどうか、と言われるとわかりません。
前の記事であ、国庁とこの神社の位置関係について一応、書いています。
また、あるいは以前に新田八幡と称されていたのに、現在は、主八幡神がご祭神におられないことを書いています。
でも、やはり、この神社は、ヤマトという中央の権力が定めた一の宮として、他の一の宮とならべておくのは、ちょっと違う気がしてきました。
そして、この神社とこのあたりの日本じゃない感、伊勢でもない感をもっていらっしゃるのは、この陵墓、陵(みささぎ)におられる方です。
これはこの時、この地に参拝した印象だけなので、なんの根拠もないのですが、もしかしたら、この天孫、ニニギノミコトと称されてここに埋葬されている方は、もともと熊襲(くまそ)、あるいは隼人(はやと)と呼ばれていてヤマトの中央権力に対向した地元の権力者ではないかな。
あるいは海、東シナ海を渡ってきた人々の長(おさ)ではないか、と思ったのです。
海の向こうからやってきたとすると、「降臨」という言葉も、海を渡ってやってきた、というイメージと結びつくのです。
そうすると、この陵から発せられるパワーやら、まとわる東南アジア的な雰囲気、それと一の宮や古墳にあるのんびりとしたムードのなさが、納得できるのです。
それをこうした形で埋葬し、ヤマト側の神話にとりこんで信仰の対象とするというのは、ちょっとねじれすぎた見方でしょうか。
でも、パワフルではあるけれど、恨みとかそんなチッサな感情はないのですよ、念のために申し添えますが。
これは山のご陵に至る別の道。
橋になっていて、ここから別の世界、結界。
ここから神域を示す橋でもあり、陵墓に埋葬された何者かを封じている、のかもね。
前の記事で、ここの情報量は多いので半日以上かけたい、と書いたのですが、実際にこの新田神社と可愛山陵のある神亀山のウォーキングをされている記事をみつけました。
こちらはもちろん、天孫降臨の神話をたどるストーリーとなっています。
神亀山ウォーキング 薩摩川内観光物産協会のサイト
この神社、すごい時間の積み重ねだけでなく、ひろい空間の情報があります。
天孫といわれる力のある支配者の古代からのストーリーをもつ聖地であり、東シナ海に向いている、海外から人もモノも情報もやってくる聖地です。