この神社の前は、天文館という繁華街で買い物や食事に賑わっているところです。
この繁華街の近くに、照国神社があります。
ご祭神は、島津家28代当主 11代藩主 島津齊彬(しまづなりあきら)公。
さいかく、と読むのでしょうか。「斉」は、島津齊彬公の一文字でもあり、また、神さまにお仕えします、という「斎(いつき)」の意味も読み取れます。
もともと、この場所から東にむかって、今は県の博物館などがある場所は島津家の鶴丸城があった場所です。鶴丸城は、鶴が羽根をひろげたような形だったそうです。この斉鶴の鶴も、その鶴丸城に通じます。木は、イヌマキで、鹿児島市の保存樹です。
といってもなんだか、お寺っぽい。
今回はうかがっておりませんが、この裏手には水の湧く場所があり、そこに水宮が鎮座されています。
もともとお城の一部だったことを考えると、戦争、戦のときに籠城戦となっても、水の湧く場所があることはとても、重要だったと思います。
神さまというより、もっと近い感じ。
となりのひろい芝生には、戊辰の役戦士顕彰の碑と護国神社がありました。ちょっとまだ、生々しい感じがします。
この後ろの山である城山では、西南戦争の最後、西郷隆盛公が自決された洞窟もあります。戦争で亡くなった方々の記憶の場所。亡くなっていったのは、英雄ばかりではありません。
公式サイトによると、今は神社となっているこの地には、南泉院というお寺があったそうです。
(照国神社 社報第21号 令和元年7月1日)
そして、この地は、明治にかけての維新の時、開国の先頭に立ちます。
その後明治になっては、その明治政府の中心となりました。つまり、明治政府の行った廃仏毀釈は、この地でも苛烈だったのだと思います。
写真には撮れなかったのですが、この神社から天文館方向をみると、桜島が見えました。
島津齊彬公も西郷隆盛公も、鹿児島の英雄です。島津齊彬公も西郷隆盛公も、あの桜島をみているのでしょうか。
鹿児島ではどこに行ってもみるこれ、丸に十の字。島津家のマーク。
ノーベル賞を受賞された田中耕一さんがおられる島津製作所は、鹿児島のメーカーではないのですが、島津家から島津の姓とこの紋を与えられたとのことです。
私たちは、英雄たちに手をあわせ、私たちのなした戦争、戦いに思いをいたします。
でも結局、桜島と英雄たちのあいだ、天文館のような場で、この世の遊びをしているだけなのかもしれません。