鹿児島は昔の区分で、大隅と薩摩のふたつで成り立っています。
そのうちの大隅の一の宮です。
神宮というお名前は比較的、最近、明治になって称されました。それより以前は、八幡宮と称されていたそうで、いまも大隅正八幡宮と称されています。
明治になって神宮になったなんて、最近の話じゃないか、と思うけれど、この参道。
多くの人の崇敬を集めて、また、何かにつけお参りされている事がわかります。
八幡神というのは古事記や日本書記にはでてこない神さま。
なので日本の神話にはなく、いつ、どこから私たちの神さまとなったのかは、いろんな説があって、私はいまは、わかりません。
一方、このお宮は、「正八幡」と称されています。つまり、本来の八幡さまという意味だと思いました。
八幡さまというと、宇佐八幡から勧請、つまりお越しいただいた、ということが一般的ですが、ここでは違います。
ご由緒でみると、八幡さまは、最初この大隅国に現れ、次に宇佐に遷ったそうです。
そのあと、石清水に行かれたと「今昔物語集」にも記載されている、とされています。
なので、ここが「正八幡」ということです。
この今昔物語集は平安時代の成立。1100年代です。これをちょっと頭にいれておきます。
つまり、この神社は1100年代にはあった、という事だけど、その前はここは聖地だったのかわからないし、そして、もし聖地だとしたら、どんな神さまがおられたのかは、わからないという事だと思います。
橋とその向こうに神さまの入口をお守りし、参拝者の祓いをしていただいている神さま。
御門神社。
新田神社 と同じように、ここも勅使殿が手前にあり、左右に長く東長庁、西長庁が延びています。
この勅使殿の裏側にまわって、参拝します。
勅使殿が拝殿の前にあるのは、鹿児島の神社独特。
手前にちょっと写っているのですが、鯛のおもちゃがこちらのお宮では拝受いただけるようです。
勅使殿、幣殿(へいでん)、拝殿、本殿が一直線に並んでいます。
ご挨拶します。
この左右の柱の印象が強いせいか、なんか「海」っぽいのです。
ボタニカルアートとも言える素晴らしい天上絵の植物ですが、海のなかから地上をみているような感じ。
拝受いただける鯛は、海幸彦山幸彦のお話で釣り針を飲み込んだお魚とのことで、これも海っぽい要素のようです。
でも、正面に折られるのは八幡さま。
公式サイトには、ご祭神は、「彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)(山幸彦)と、奥様の豊玉比売命 (とよたまひめのみこと)」とありました。
彦火火出見尊は火折尊(ホオリノミコト)とも称されます。
続いて、「また正八幡宮、国分正八幡、大隅正八幡等とも称し全国正八幡の本宮でもあります」の記載もあります。
つまり、もともと、ホオリノミコトのところに、八幡様もいらっしゃった、というのが順序のようです。
ホオリノミコトは、ニニギノミコトのお子さん。
ニニギノミコトは、コノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売)との間に、こちらのご祭神のホオリノミコト(山幸彦)と、火照命(ホデリノミコト)である海幸彦のお子神がおられます。
あるいは、別の書物には、このお二方に加えて、火明命(ホアカリノミコト)のお子神も含めて3柱の神さまがお子神とされる場合もあります。
海幸彦山幸彦のお話は、山幸彦の「勝利」で終わるのですが、これは海幸彦を神さまとしたこの地の隼人族を制したヤマト側の神話とも読めるお話になっています。
しかし、山幸彦はその後、海神の娘である豊玉比売命(トヨタマヒメノミコト)と結婚し、鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)が生まれます。このウガヤフキアエズノミコトが初代の天皇とされる神武天皇のお父様。
このあたりは征服した中央の権力と、征服された地元の権力の和合、とも読めるようです。
古い神さまだなあ。
雨の杜のご祭神は、豊玉彦、つまり海の神さまです。
錦江湾からも近く、海からそのまま、竜宮があがってきたようなお宮。
八幡さまという勇ましい神さまをいただきながら、その後の海と山の和合をみるような、優しい聖地です。
鹿児島神宮の鯛車については、さんち さんのサイトの記事で。
(この「さんち」とてもオシャレで、シュッとしているサイトだなあ、誰がやってんの?と思ったら中川政七商店さんでした。なるほど)
鹿児島神宮 公式サイト