大甕(おおみか)神社、あるいは、大甕倭文(おおみかしず)神宮と称されます。
このお社の由来を考えれば、当然なのですが、茨城神社庁のページには入っておらず、
社号はフェイスブックでも、併記されています。
ご祭神は、武葉槌命(たけはづちのみこと)。
武葉槌命は、倭文神(しずりのかみ)とも称されます。
また、武葉槌命に封印されたという、天津甕星(あまつみかぼし)もお祀りされています。
天津甕星(あまつみかぼし)は、天香香背男(あめのかがせお)、星神香香背男(ほしのかがせお)、香香背男(かがせお)、香々背男(かがせお)とも称されます。
甕(みか)は、大きなカメのことで、神さまに捧げものをする入れ物を表すとも聞きました。
ここに、捧げものをして、荒ぶる神に治っていただくこと。
あるいは、ここから先の地元の神さま、国津神(くにつかみ)や
蝦夷(えぞ)の神に捧げものをした場所、ということでしょうか。
いちいち、言うように言われたので、しつこくてすいません。
拝殿の前の道が、たぶん国道ができる前によく使われていた道。
国道6号、陸前浜通りができて境内が寸断されてしまったのですが、
本来は、こちらが正しい入口のはず。
プリミティブな祭祀の場では、直接、土の上に伏したり、木に向かったりするので、
祭祀の場所はそれほど広さを必要としないので、
登ってきた本殿があるようなギリギリの広さでよいのですが、
ある集団で祭祀を行うときには、
やはり、こうした拝殿があって広さが確保できた方が、おちついて参拝することができます。
だから、本来の祭祀の場所と、いまある拝殿、ほしくは本殿がある場所が
ちょっと離れていることもよくあります。
武葉槌命に討伐(とうばつ)される甕星香香背男(みかぼしかがせお)とありました。
本来、ここはまつろわぬ神(反逆者)と呼ばれる地元の神さまを、
ヤマトの神さまが平定された場所です。
この記述は、古事記にはなく、日本書紀にだけ見られるそうです。
つまり、大和朝廷が成立した後の、関東や東北への勢力の拡大であると読めるようです。
日本書紀が成立するあたりの、出来事だったと考えられます。
この倭文(しず)は、奈良の葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらぎの しどりにいます あめのはづちのみことじんじゃ)をお祀りしている一族です。
この地を平定したあとも、ここに留まったようです。
機織(はたおり)、織物の一族とされているので、どうも、戦い向きでないように思えるのですが、
七夕の星祭りの織姫は機織をしているので、古くは星と機織の関係があったような気がします。
そちらに話題がひろがると、大甕神社から離れてしまうのですが、この世界を作った神話と
機織りの上達を祈願したお祭りなどが重なっているようです。
戦いの一族というより、古代中国の世界観をもった一族、という事でしょうか。
また、機織りは国の重要な産業で、この機織りの機械というのは、最先端のテクノロジーのマシンであり
それがもたらされた時の圧倒感は、あったろうな、と思うのです。
本殿の真下に天神社。
本殿を遥拝するためのお役目もあるように感じました。
奈良の大神神社のご神体である三輪山に登るには、
狭井神社の境内から登拝のですが、
その狭井神社に向かう途中の神社にも
同じような雰囲気の場所があったのを思い出しました。