ちょっとした山の上にあります。地名が「富士ノ上」というところなので、
古墳か、富士山信仰に関連した場所なのかな?と思っていました。
このお社は、別の場所にあって、こちらに遷座されたとのことです。
もともとは、この地には、浅間権現がいらしたとのことで、その地名が残っているようです。
神仏習合の権現信仰が、この地にあった事を示しています。
でも、今は、浅間権現のなごりは、わかりませんでした。
本殿の近くには、いくつか小さな祠がありましたが、
富士山あるいは、浅間神社、浅間権現にあたる摂末社であると
表記されておらず、ご挨拶したときも、わかりませんでした。
ご祭神は、神武天皇。奈良の橿原神宮と同じです。
また、桓武天皇、崇道天皇も合祀されて三柱、いらっしゃいます。
奈良の橿原神宮の感じと比べると、ちょっと違うような感じです。
神武天皇も、各地で戦いをされているのですが、
ここは、神武天皇とは違う、武士というか、争いの感じがします。
奈良の橿原神宮は、明治になって創建されたものです。
一方、ご由緒書によると、こちらの創建の方が古い。
だから、橿原神宮とは感じが違うのは、当然かもしれません。
そのせいか、厄除けの神という御利益が紹介されていました。
いただいたご由緒書によると、こちらは橘諸兄(たちばなのもろえ)が
神武天皇のお社を創建し、その後、桓武天皇をお迎えした、という記述や、
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、蝦夷征伐、東征の戦勝のお礼に、
ご社殿を再建した、という記述も紹介されています。
橘諸兄は密告によって、政治から失脚し亡くなった方。
坂上田村麻呂は、この東北、蝦夷に向かう最前線としての常陸という国に足跡を残すべき方。
崇道天皇は、皇位継承の争いに敗れて、恨みを残して亡くなった方。
それならわかる。
当時の政治に関わる人として、和歌を詠めるのが当然とはいえ、
万葉集の撰者ともいわれる方で、恨みも残して失脚した橘諸兄と、
桓武天皇とも関係があり、武士としての面もあるけど、
多くの裏切りを見てきた坂上田村麻呂。
崇道天皇は、桓武天皇の弟で早良親王という方。絶食して亡くなっています。
あるいは、その縁者の思い、であるなら、わかるような気がします。
いまは、港を守る丘のうえで、静かにいらっしゃるようです。
橿原神社 茨城神社庁のページ