小さいころから、おまじないは身近にあるものでした。
転ぶと「痛いの痛いの、飛んでけ~」は、やっていましたし、お腹が痛くなると、おばあちゃんが巣鴨のお地蔵さんでもらってきたお地蔵さんの書いてある小さなお札を飲み込んだりしました。
小学生の頃は、こっくりさんを呼んでいましたし、好きなひとと「結ばれる」というおまじないの、一つやふたつもやっておりました。
まあ、その当時、「結ばれる」をどこまで、どう考えていたのかを思うと、かなりカワイイし、こっくりさんで遊ぶなんて、今考えると、コワいことをしていたもんだと思います。
でも、それは、いつ忘れてしまったのでしょうか。
この本の最初にある言葉です。
「視覚優位となったのは・・・その明るさに目がくらみ、私たちは見ることで世界を把握できると錯覚したのだ」
お札を飲んだところで、痛いものは痛いし、痛いなら薬を飲んだ方がはやい。
それに、見えないモノは、この世界に存在しないモノだ、という考えは、オトナになるためには「便利」な考えで、それを積極的に採用してきました。
でも、それは、見えないモノはコワい、という感覚の裏返しのような気がします。
その見えないモノや人の思いの力と怖さを、むしろオトナになってから感じているのだと思います。
「便利」という名前のお店は、異常な明るさの照明をつけています。床もピカピカにして、その光を反射させているそうです。
あの異常な明るさはむしろ、闇への怖さの裏返しではないでしょうか。
その見えないモノとのつきあい方の古来からの智惠が、おまじない、祈祷、お祓いだったのではないでしょうか。
そして、これは「お咒(まじな)い日和(びより)」
その見えないモノとのつきあい方であるおまじない、お呪い、呪詛は、「悪」で、祓いは「正」なのでしょうか。
祈祷は良くて、呪いは悪いのでしょうか。
一見、相反する見えないモノとのつきあい方の、「祓いと、呪い」「祈祷と呪詛」
この二つには、どう違いがあるのでしょうか。
これらは、「違いはない」とあります。
そうかもしれません。
祓いも呪いもあくまでも、こちら側の都合でしかないのです。
昔は、国を挙げての呪詛合戦もありました。
でも、今、歴史を振り返ってみると、歴史は勝者の論理で書かれているし、呪詛した方が「善」で、調伏された方が「悪」とは言えないと思います。
そして今は、見えないモノへの敬意をもったつきあい方を、忘れて、というか、それをないものとして、無視しようとしているようにも見えます。
別に、その道のプロになる話ではないのです。そういったモノを見えるようになろう、という話でもないのです。(見えないプロは、たくさんいるし、見えないから、プロではないというのもおかしいし)
ただ、自分の感覚にフタをせず、昔から伝わっているスキルを使わせていただき、見えないモノへの敬意をもっていることを忘れなければいいと思うのです。
そして、ここには占いについてのページもあります。
「占いからマジナイへ。その距離は半歩もない」
あらら。それ、言っちゃうんですね(笑
オカルトとは、ラテン語の「隠されたもの」が語源だそうですよ。
加門さんの本「墨東地霊散歩」は、こちらの記事でも、紹介しております。
東京下町に土地勘があると、かなり実感がある散歩案内です。
巣鴨 とげぬき地蔵 高岩寺 巣鴨地蔵通り商店街のサイト