当然ながらこのあたり、井伊谷(いいだに)と言われるとことは井伊家がお治めになった場所なので、ゆかりの寺社がたくさんありますが、ここもそのひとつ。
ご祭神は、宗良親王(むねよししんのう)
南北朝時代、後醍醐天皇のお子様。天台座主となっておられた宗良親王ですが、還俗されて(お坊さんから、普通のひとにもどって)北朝の足利氏との戦いをされました。
井伊家には、東北に向かわれる途中の船が遭難してこの近くに漂着された宗良親王を助けたことにご縁があり、宗良親王を奉じて北朝と戦ったとのことです。
そういえば幕末の尊皇攘夷、維新の志士を弾圧した井伊直弼(いいなおすけ)公は、こちらの井伊家です。
自分は南朝の宗良親王とともに戦った家柄なのだというプライドもどこかにあったのかもしれないな、と思いました。
(そして、さらについでながら井伊直弼公のお墓のある豪徳寺と、弾圧されて獄死した吉田松陰先生のお墓のある松陰神社は世田谷線で3駅め。1.5キロのところで、ほぼお隣さん)
広い駐車場もありますし、このとなりは龍潭寺。もとはこのお宮は龍潭寺の関連のお寺があった場所だそうです。
それがご神威を軽んじることではないし、神さまに違いがあるわけじゃないけれど、この門のあたりが明治になってできたっぽい感じがするのです。
ご祭神の宗良親王は、戦に敗れた南朝です。敗者、恨みを持って亡くなった皇室の方々を明治になってお祀りしなおす動きがありました。
この神社もそういった動きのなかでこちらにご鎮座されたように思います。
神門、でしょうか。
屋根に鰹木(かつおぎ)ものっています。ことさら神道を強調しているようで、これも明治政府の意向を感じます。
八幡さまみたい。
といっても数百年前は実在した方だし、戦のない時だったら比叡山で和歌を詠まれて静かにお過ごしになったのかもしれません。
このお隣が龍潭寺。
本殿のご祭神の宗良親王と娘の駿河姫(道政公の娘、重子(しげこ)姫)との間にお子様をを授かった方。
ここでも脇に控えて仕えていらっしゃるようです。
なんか不思議な方向に入り口があるんだなあと思っていたのですが、西、京都の方向を向けて建てられているそうです。
門の外からは瑞垣(みずがき)が見えましたが、公式サイトにはこちらの写真が。
いわゆる天皇の陵(みささぎ)のような古墳のイメージではなく、お塔婆。
井伊谷宮 宗良親王御墓
伊勢神宮のつくり。
ねじねじしています。
境内にはこれから宗良親王の資料館を新しくするそうです。
最近、こういったキャラクターを前面に押し出しているところ、多いですね。目をひきます。