2019年11月に中国で最初の感染者が確認された新型コロナウィルスによる感染症は、あっという間に世界にひろがりました。
日本では2020年4月に緊急事態宣言がされて、私たちの日常がすっかり変わりました。
この記事を書いている時(2020年6月)は、緊急事態宣言は解除となり、少しずつ街にも人出はもどりつつありますが「新しい生活習慣」が提唱され、まだ気をつけながら過ごしております。
この新型ウィルスによる感染症が流行しはじめてから、いままで当たり前のようにドラッグストアに並んでいたトイレットペーパーの棚が空っぽになり、開店前には長い行列ができました。
「当たり前」がほんのひと月、ふた月で「当たり前」でなくなっていく様子を見てきました。
以前から当たり前にあったものは私に向けての「プレゼント」「贈与」だったのです。
それに気がついた2ヶ月でした。
そのタイミングでこの本を読みました。
私の日常が、いかに微妙なバランスのうえに立っていたか、ヤジロベエのように何かが欠けても落ちてしまうものだったかがわかりました。
そしてその日常を支えているのは、名前も知らない自分以外の誰かだったのです。
当たり前のように棚に並んでいたトイレットペーパーもそのひとつ。
トイレットペーパーの材料を集める人、それを作る人、運ぶ人、販売する人。
思いつくだけでもこれだけの人の手を経ています。でも、もうちょっと考えてみるともっとたくさんの人に支えられています。
集めるには燃料や集める道具が必要です。その燃料や材料を作る人、運ぶ人、使う人。
トイレットペーパーを作るにはトイレットペーパー以外の包装する材料も工場も必要。運ぶにはトラックやそれが通るための道路、販売するためにはその場所を作った人や販売スタッフ。
トイレットペーパーひとつにしても、私はこれだけの、というかここに思いつかないくらいたくさんの人に支えられているのです。
それがこの本の中にある「すでに贈られている贈与」だと思うのです。
スピリチュアルな考えに「ホ・オポノポノ」という考えがあります。(ホ・オポノポノ公式サイト)
たくさんの方が研究、実践されているのですが、心を癒やす4つの言葉「ありがとう」「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」という4つの言葉を発することでクリーニングしていくとされています。
ホ・オポノポノのこの4つの言葉も、私はすでに贈与されているもの、毎日の当たり前であって、すでに私の手のなかにあったものの気づきがなかったことへの言葉ではないかと思うのです。
そして、新型コロナウィルスによる感染症との日常は続きます。
すでに贈られているものに気がついた私は、何を次にパスできるか、贈ることができるのかと考えます。
でも、そこはちょっと慎重にして自分の心の動きをみておく必要があります。
阪神淡路大震災、東日本大震災ではボランティア活動が活発になりました。
一方、献血に行く人の数は減っているとこの本に書かれていました。
誰かのためになる気持ちがみんなのなかに大きくなってきたのなら、献血に行く人も増えてもいいはずです。
著者の近内さんによると、それは目の前に感謝をしていくれる人の有無ではないかと書かれています。
ボランティア活動に行くと目の前におられる被災された方から感謝をされます。
しかし、献血は確かに誰かの命を支えていますが、その時にはみえません。
もし、私にそのような心の動きがあるとしたら、贈与ではなく「交換」ではないでしょうか。
交換は経済活動と同じです。
お金を払って何かを手に入れること。
ボランティア活動をして感謝をされることも似ているように思います。
ここはとても気をつけなければいけないのです。
ボランティア活動を否定しているわけではありません。
自分の日常にあって誰かの日常にないという事に気がついてしまった。
何かをしないといけないという気持ち。自分と誰かとの日常の差を埋めるしかない。
そういった切迫した気持ちであるはずです。
そして、その差を埋めることはもしかしたら、目の前で受け取ってもらえないかもしれないけれど、それでもその切迫した気持ちを抑えることにはなりません。
でも、きっと誰かに届くはずと祈ること。
インスタグラムやSNSでは満月の日には私のタイムラインには月の写真が並びます。
季節の花や、気持ちのよい青空や虹がでたときも、誰かが写真をアップしています。
それは、誰かに伝えたいという気持ちがあるはずです。
それも「贈与」であるのです。
でも、そこに「いいね!」の数を期待してしまうと「交換」になってしまうのです。
すでに贈られてしまった事に想像力をもって気がつくこと、そして祈りをこめてシェアすること。
その繰り返しがこれからの毎日になると思うのです。