江戸城といっても、太田道灌が築城し、あるいはその前に江戸氏が城を築いてからの町なので、京都、奈良と比べたら、時代は浅いのです。
そして当時は、東といっても、いまの皇居の目前まで海の湿地帯でした。西は新宿は最初の宿場なので、すでに郊外扱い。
(スカイツリーの記事は、山谷堀公園で書いています)
ちなみに、中沢新一さんが、最初にアースダイバーで潜った東京の縄文、古墳時代は、新宿より西、あるいは南側の地域で、そこは江戸ではなく武蔵野です。
つまり、千年の都である京都、あるいは奈良とは比較にならない「今出来(いまでき)」の町ともいえるのです。
いつか京都の知り合いと話していて、「こないだの戦争」と言っていたので、東京大空襲の第二次大戦の事かと思っていたら、応仁の乱のことだと言われました。
応仁の乱以降にできたお店は、今出来だそうです。
この本で語られる江戸東京の聖地も、こういった「今出来」の江戸、東京の聖地について書かれています。
江戸から東京にかわる明治期には、東京で権力の主がガラっとかわっています。
この体制の主の入れ替わりによって、幕府側の「聖地」が新政府にとっての破壊の標的となったこともあります。
また、この本のなかでは、「新宿からでていった人が二度と新宿に戻ったためしがない」という新宿の花園神社の宮司さんの言葉を紹介しています。
特に新宿はそうかもしれません。
その場にいる人が変わっていき、その場の物語が生まれて、消費され、変わっていき、聖地も変わっていくのかもしれません。
上野の寛永寺は、徳川将軍家の祈祷所で菩提寺でした。
しかし、いまはかなり小さくなっていて、解放された上野公園のなかに、天海僧正の遺髪塔がありますが、いまは、なんだかなあ、という場所に置かれています。
でも、天海僧正が比叡山と琵琶湖のパワーをもってきた上野の寛永寺のもとの伽藍のあとは、桜のお花見の名所になっています。
(こちらは上野の東照宮。徳川家康を祀る神社です。こちらの記事で)
そして、幕府の祈祷寺だった浅草寺は、いまは国際的な観光地となっていますし、将軍の墓所のひとつである増上寺も、かなり小さくなっていますが、いまは東京タワー込みのパワーをもつ聖地になっています。
(増上寺の花まつりについての記事は、こちら)
こうしてみてみると、権力者の意図で破壊され、変容し、あるいは消費される東京の聖地は、新しい別の力を得て多くの人をひきつけているようです。
東京という土地では、江戸時代は、大きな火事が何回もあって、あるいは上野が彰義隊の戦場となり、関東大震災や東京大空襲では10万人を超える犠牲者がでた都市です。
その死者たちの記憶は、特に隅田川の東に色濃くのこっており、いまも路地のカゲに動くモノもあると私は、感じています。
権力の交替があり、聖地を標的にする動きがあり、時代がかわって人が変わって、物語が生まれて消費されても、死者の地でもある東京では、聖地のパワーは見え方、出力方向が違うだけで、なくなりはしないと思うのです。
私はあまり情報を持たずに、聖地、パワースポットに行きます。
そして、帰ってきてから、「あの感じってなんだったろうか」と物語をかぶせていきます。
なので、この本にでてきた聖地も、ああ、そうなのか、といういくつかの発見がありました。
聖地、パワースポットの物語を知っていると、その場に共振しやすい、という方であれば、読まれてみるのも良いかもしれません。
寛永寺のサイトから、天海僧正 毛髪塔 地図をあけてください。(扱いもチッサいのね)