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阿・吽 (阿吽) 第九巻

主人公は、最澄と空海。
「平安時代に日本に密教をひろめたお坊さんで、教科書でみた」そうです、そうです。
だからって、「阿吽って、お坊さんの漫画でしょ?」とおしまいにしないで。
おかざきさんの熱量はすごいのです。読むのには、体力が必要。
そして、この巻は、情熱と血の赤にまみれた坂上田村麻呂の絢爛豪華な線も見て欲しい。

以下、ネタバレを含みますので、未読の方はご注意。

薬子の変・平城太上天皇の変の前から始まります。
「君は誰の味方なの?あなたは私の側にいるの?」と嵯峨天皇(このときは、神野親王)が坂上田村麻呂に問います。
坂上田村麻呂は答えます。「誰の味方でもありません」

これは決して坂上田村麻呂が、パワーゲームの戦略で答えているのでも、空気を読んだりしているのではありません。
彼は、誰も選ばない自分の行く道が見えているのです。
平城上皇軍に対峙するときに、こう言います。「行く道が見えている」
坂上田村麻呂の身体は傷あとがたくさんあります。過去もそうだったのかもしれません。彼はその身ひとつで選ぶ道をすすみます。

坂上田村麻呂の選ぶのは、「人の死なない道」
平城上皇・薬子軍に対した、坂上田村麻呂は、鎧も甲もつけず裸で、平成上皇を抱き上げます。
「正義が振りかざされたとき、人が死ぬ。善悪などない、正義などない」と言っています。
坂上田村麻呂は、敵ながら心を開いた阿弖流為(あてるい)を、処刑されています。
正義とはなんなのか。これは「正しい道」なのか。
この小さな世界のなかで、子ども同士が何を争っているのか。
常に自分に問いかけてきたのだと思います。

薬子の変をおさめて、都にかえる馬上、坂上田村麻呂の身体から血が流れます。
古傷と言っていましたが、身ひとつになったときに平城上皇に刺されたのではないかと思いました。
自分を信頼して都に上がってきた阿弖流為の信頼を裏切ったことになった坂上田村麻呂は、自分が阿弖流為を殺したと思っているのではないでしょうか。
なので、自分を罰するために、信頼している者に裏切られることを、殺されることを、どこかで望んでいるように思えたのです。

そして、その馬上から、坂上田村麻呂は阿弖流為の影を見ます
過去から、幽世(かくりよ)から、坂上田村麻呂を迎えにきたようです。
誰も死なない道を選び、傷だらけの身体となった坂上田村麻呂は、この物語から退場していきます。
だから、坂上田村麻呂はこう言ったのではないかと思うのです。

「行く道が見えている」

「見える」という事でいえば、「仏教はよくわからない。だって見えないじゃないか」と発言していた嵯峨天皇は、ひたすら空気を読み、内裏のなかのパワーゲームのなかで、結局は生き残り、勝ち残ります。
しかし、嵯峨天皇は空海の書によって、見えないものを「見てしまう」ことになります。
自分を騙しながら、「見ないように」してきた執着です。
この自分の執着と向き合う事ができるのは、ツラいけれど強くもなります。
嵯峨天皇は、このあと、空海、最澄をはじめ仏教のパトロンとなるのです。

一方、最澄は「見えていません」
現実に耳と目を悪くしており、それが原因で、空海からの国家安泰の修法を一緒にしませんか?という空海からの誘いにのれなかったのかもしれません。
最澄は、旧来の仏教勢力に邪魔をされ、あるいは「見えない」怨霊に足をとられ、でも、その名前にかけた呪のように、自らをもっとも清くすることで「正しい道」を行こうとしていたはずです。
しかし、現実として見えない、聞こえない最澄は、自分の「行く道」も見えず、山のなかを修行に歩きます。
その果てに「見た」ものは、自らの欲望。
自分を「見た」最澄は、そこから立ち上がってくるのです。
この頃、比叡山の座主となる弟子も集まってきており、次につながる言葉が残ります。
比叡山延暦寺の「一隅を照らす」です。比叡山延暦寺のサイト

「見えるもの、見えないもの、それを行き来するのが仏教だ」とは勤操(ごんぞう)の言葉です。
見えるものだけにこだわらず、見えないものだけを頼りにしないのは、とても不安です。
でもそこを行き来するのが仏教だ、と。
であれば、戦場で坂上田村麻呂が体験したのも仏教に通じるものではないでしょうか。
坂上田村麻呂のように戦場で生き延びるために身体感覚を研ぎ澄ましてきた者が、敵の気配にゾワっとする、とか、咄嗟にこっちに逃げるという感覚は、そこに通じるように思うのです。

空海の帰京に助力した橘逸勢は、見えているのではなく、「長安を見てしまった」と言っています。
長安を見てしまった橘逸勢は、自分の生まれながらの立場に向き合っています。
そして、「君は誰の味方なの?あなたは私の側にいるの?」という嵯峨天皇の問いに「はい」と答えています。
この判断が、その後のパワーゲームに負けて、流罪となるように思えます。
そして、流刑地への途中で亡くなくなり、死後、怨霊となったとされています。
しかし、この9巻の時の橘逸勢は、彼にしか「見えない」、もしくはユニークな世界が「見えている」空海とともにあります。
冤罪で流刑となったあと、怨霊となる橘逸勢の「行く道」を知っている私が愛おしいと思うシーンです。

空海の見えている世界は、この巻では息抜きのシーンであり、ここでは、橘逸勢も、皆とともに口をあけて笑っています。

でも私は、作者のおかざきさんは、修羅場だったり、あるいはこの世ならざるモノを「見てきた」者たちは、強く、美しいと言祝ぎされれいるように思うのです。

生きる限りはカタツムリの角の上。
だったら、笑いませんか?

蝸牛角上争何事
石火光中寄此身
随富随貧且歓楽
不開口笑是癡人

かたつむりの角のほどの小さな場所で、
何を争っているのか。
火花のような一瞬に仮に身を寄せているこの身
であれば、金持ちなりに貧乏なりに楽しくやろう。
悩んで、大口をあけて笑うこともしないのは、まったく愚かである。

酒に対す 白居易 (第6巻に登場します)の詩です。この巻のキイポイント。

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についても、書いております。

阿・吽 (阿吽) 第9巻

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