この巻では、最澄が空海の弟子となり結縁灌頂(けちえんかんじょう)を授かるところから。
「授かる」といっても、すでに最澄は、国家鎮護の法会、桓武帝の病気平癒を祈願するエラいお坊さんになっているのに、自分より身分の低い空海に弟子入りするのです。
以下、ネタバレを含みますので、未読の方はご注意ください。
最も澄むという名前を持ち、光を目指している最澄。
空と海という天地を示す名前をもち、光を目指している空海。
前回の10巻では、最澄が身を委ねることのできる物語としての空海と書きました。
一方、空海は唐の恵果和尚 (けいかかしょう)から持ち帰った密教のタネを、渡すものとして最澄を選びます。
空海が持ち帰った密教のタネを、日本に根ざして花を咲かせることのできる者。
そして、そのタネを渡すことで、空海は「死を願っていた」ことが「叶う」のです。
なので、この巻は、空海から最澄への熱烈なラブレターです。
光に向かって、一緒に行こう、行こう、行こうと誘う。
結縁灌頂も同じ大日如来を選んで、一緒に行こう、行こう、行こう。
私たちにとって、結縁灌頂(けちえんかんじょう)は、仏様とご縁を結ぶことです。
身近に仏様を感じることができて、誰でも仏様にお祈りをすることができるようになったのだと思います。
空海にとっては空海と同じ仏様、大日如来との縁を最澄に結んでほしかったのです。
そして、密教の種を日本に根づかせて花をさかせて欲しかった。
でも、弟子となった最澄が結んだ仏様は、空海の大日如来ではなかった。
そして、最澄は空海からのアイラブユーに対して「我(あ)の死は、もう決まっている」と答えます。
・・・失恋。
寂しいけれど、空海はさらに「おもしろい!」と!
・・・あきらめの悪いヤツ(笑
空海の愛は、直球な愛。
・・・・・・
「阿・吽」は、空海と最澄の物語なのですが、この巻は藤原冬嗣の巻でもあると思います。
この時は、「愛だけ」の桓武帝の御代、その後にそれを「欲していただけ」の平城帝に幽閉された伊予親王の最期をみて、さらに、薬子の変を治めた一筋縄でいかない嵯峨天皇の御代です。
その腹心であった、藤原冬嗣です。
何を考えているのかちょっとわからない、でも、仕事ができる官僚であったろうと思います。
冬嗣は「有能なものが好きだ」そして「敬意をもって畏れもする」と言います。
有能かどうかを判断するのは、相手に選ばせることです。
毒入りを選べば、敬意をもって畏れる必要がないと判断していたように読めます。
「氷の冬嗣、炎の田村麻呂」と評されたふたりですが、すでに亡くなっている坂上田村麻呂が怨霊となって、冬嗣の前に現れます。
田村麻呂は、その相手に選ばせる方法で自分を殺害したのは冬嗣であって、自分はわかっていたと伝えにきます。
田村麻呂は、(ちょっと私の好きバイアスが入ってしまうのですが)殺されるのはわかっていたんじゃないかと思うのです。
それは、蝦夷征討の時に敵方の阿弖流為(あてるい)との交渉をして、阿弖流為の身の安全を確約して京都に連れてきました。
しかし、結果として阿弖流為が殺害されてしまった。それを自分が殺したとして、どこから自分の死を望んでいたように思うのです。
なので、田村麻呂は自分を殺したのは冬嗣だと知っていたと告げると、冬嗣は心から「有能」な田村麻呂を「畏れる」のです。
これは田村麻呂と冬嗣が酒をまんなかにして語る場面。
田村麻呂の方に影ができていません。
しかし、冬嗣は空海と最澄を冷静にみて「有能」と思っており、それをなんとか朝廷に使えないかと考えいるようにか書かれています。
でも、冬嗣はそんなにわかりやすい人物ではないと思うのです。
有能なものを判別して、畏れながら使うだけではないと思うのです。
そして、冬嗣の愛は、直球ではない愛。
そしてまた、畏れというのは、恐怖ではないと思うからです。
畏れて、しかも求めるというのは、神さまの祟りをおそれて祈る気持ちに似ています。
主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。(箴言 一章七節)
そして、冷静にみているもう一人(ひとり?)は、にうつ様
空海が聖地をひらく高野山におられるひとではない方。
いまは、かなり力をそがれていて子供の姿になっておられるけれど、空海との約束を待っている方。(4巻)
この約束通りに、空海は死ぬことができず、今も高野山の奥の院に生きて修行を続けていらっしゃる。
・・・・・
そして、これを拾っていくとなかりおもしろいのですが、登場人物がそれぞれ「美」について語っています。
それについては、また別の機会に。
私は読むだけですけど、体力を使う漫画です。
おかざきさんの熱量に、ついていきます。
前のめりの感想文をずっと書いております。