この巻では、いよいよ、空海が東大寺別当となりその力が認められていくところから。
以下、ネタバレを含みますので、未読の方はご注意。
一方、最澄は第八巻の最後では、弟子が次々に去り、目がみえず耳がきこえなくなりつつあります。そんな時に自らの化け物に向き合うところで前巻が終わっています。
これは空海と最澄が再会する巻。
空海は皆の先を行き光を示しますが、最澄は後ろの皆を引きずっていくように思います。
最澄は東大寺に参ったときに、その旧勢力の泥のなかで自分自身の闇を思いだします。
「生は苦」であり「世の中を愛しているわけではない」と。
最澄は最初から、「生は苦です」(第一巻)と最澄は言っており、にうつ様(丹生都比売)から「教典や真理を追っているが、世の中を愛しているわけれはない」(第五巻)と見抜かれています。
にうつ様から見抜かれた時は、無理に笑っていた最澄ですが、この東大寺に至った時は、同道していた僧の光定を思いやる余裕もあり、堂々と「それでも全ての人を救わなくてはなりません」と宣言しています。
「生は苦」であり「世の中を愛しているわけではない」のに、それでも全ての人を救わなくてはなりません」という根源には、実母(でさえ)も救われなければならないという気持ちがあるように思うのです。
当時は修行して僧侶となったものだけが「救われる」とされていました。しかし、僧侶となったものも必ずしも煩悩から解放されているわけではありません。
そして、その僧侶も含め、すべての者が救われる道を探していたのが最澄です。
一方、空海はこの東大寺で別当(一番エラい人)に任命されています。
彼はこの旧勢力の泥のなかでは、泥に沈むのではなく、それを追い越し、その先を示します。
この二人の間にいるのが泰範。
ここでは最澄の一番弟子だった泰範です。
虐待された過去をもつこの泰範は、当然ながらこの世界を恨んでいて、この世を破壊する大きな力をもっているから、として最澄に教えを請います。
泰範は、その生い立ちから「この世を壊したい、こんな世界なんかなくなってしまえ」と願っています。その破壊的な望みを最澄に託してました。それは、「この世は苦」と思っている最澄に通じるものを感じていたからではないでしょうか。
最澄は、優秀な(そしてちょっとエロい)泰範を導き、総別当(責任者)を泰範とするのですが、泰範は、最澄の寿命の短さを感じとって、最澄では自らの欲望をかなえられないと去っていきます。
そして、これから泰範がどうなるのかは後の私たちは知っています。
泰範は、師の最澄から去っていったのですが、一方で偉大な師をささえる者たちは、私たちと似たような悩みと向き合っています。
尊敬する最澄は素晴らしい師と思っていても、弟子は振りまわされてばかりだと思う気持ちに向き合う光定。
また、優秀な叔父の空海に比較し、おまえは何もできないといわれるんじゃないかと思う智泉。
二人は、自分自身の暗い声から逃げます。自らの影に追いつかれないように「その先へ」走ります。
その先にあるものは、きっと光。
空海が示す光ではないかと思うのです。
光は、将来への約束。
空海は二人の人(ひとりは人でもないけど)に、2回目の約束をします。
にうつ様には、高野山に仏の教えの地をつくること。
皇后となった橘嘉智子(たちばなのかちこ)には、ひとめでわかる仏の世界を見せること。
将来の光の約束は、いま生きている物語からの解放も意味しているのかもしれません。
この単行本が発売になった2019年10月。台風19号が大きな災害をもたらしました。
この災害で「●●ダムがあったから○○地域は洪水から逃れられた」という物語がSNSに流れてきました。
また、一方、「●●があったとしても、あまり数字的には意味がない」という物語も流れてきました。
現実に対し、物語、因果関係がわかると、納得し安心することができます。
しかし、それは「正しい」のかどうかは、今は私はわからないと思っています。
そして、その物語は安心だけでなく、時として、こだわりを持たせ、怒りや苦悩をもたらせるのです。
私は台風による災害は大難が小難へ、小難が無難へと思っています。
ましてや、災害は他人事ではないし、そして、はやく日常がとりもどせるように祈り、できることをしたいと思っています。
ただ、この二人(一人は人じゃないけど、くどい)の、にうつ様と橘嘉智子皇后に、雫がおちる花を差し出して、空海が語った言葉が響きました。
「この花そのものには真実がない。雫にも真実はない。ただ雫が垂れる、それだけが絶体的現実だ」と。
私には物語が必要です。こういう理由だからこうなったという因果関係がわからないと、不安です。
花から雫が落ちた、という物語で納得できるのです。
SNSに流れてくる物語、あるいはテレビのコメンテーターの発する大きな声に身をまかせていると納得し、ラクなのです。
でも、自分が根拠とする物語と、全く違う物語がSNSに流れてきてそちらが真理に近いとわかっていても、そこに飛び込むことは難しいです。こだわりを捨てないと、新しい物語には飛び込めません。
全く別の考え、因果関係、物語に身をゆだねるには勇気が必要です。
一方で、のりやすい物語も用意される事があります。
泰範のように「役にたつかかどうか」というわかりやすい物語にのることもあるでしょう。
それは今は「自己責任」という物語が、簡単にのれる物語として用意されているように思います。
それに対し、絶体的真実という仏の世界を、現実として見せようと約束する空海は光です。
物語や根拠はないかもしれませんが、そこにゆだねてみようとおもう強さがあります。
今の物語にしがみついてる自分を捨てろと伝えてきます。
そして空海と最澄は、再会します。
最初は、山のなかで水垢離(みずごり)をする最澄を見かける空海。
あるいは、高雄山寺での講話での二人。
さらには、にうつ様の結界のなかで助け合う二人。
でも、現世(うつしよ)として出会うのは、遣唐使として唐に渡る前に太宰府で出会って以来です。
軽やかに前を走り、先に光を示すのが空海。後ろに皆を背負い、引いているのが最澄。
光を示す空海と、全ての者を救っていく最澄は同然、力の方向、バイアスが違います。
なので、最澄は再会したあと低頭し「弟子にしてください」と伝えるのではないでしょうか。
それは、最澄がゆっくりと手ぬぐいの匂いを吸い込んだあとです。
救われなければならないと思いながら、しかし一緒にいると安心した母の袖の匂いを吸い込んだ子どもの頃のように、自分を任せられる相手に出会ったからではないでしょうか。
最澄が身をゆだねられる物語は空海だと発見したのです。
空海と最澄の幸せな時間でこの巻は終わります。
そしてこの二人がであった乙訓寺は、怨霊となった早良親王が幽閉されていたお寺。
怨霊も、ちょいちょい登場しますが、こうなってくると、生きている人間に比べるとかわいいものです。
物語に身をまかせることについては、この釈徹宗さんの本をご一読ください。
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